「貧しさ」が狙われた 【連載レポート】強制不妊(14)

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宮城県内の各地から集められた小松島学園の子どもたち。小学校低学年から中学生が同じ施設内で生活指導や職業訓練を受けていた=三宅光一さん提供(写真は一部加工しています)

飯塚淳子は1960年4月、仙台市の小松島学園に入所した。14歳の時だ。

「入園希望」が多い(*1)中、1期生として選ばれた40人のうちの1人である。宮城県中央児童相談所が「学習効果」が高いと判断した(*2)。淳子は貧しかった家の手伝いで中学校をよく休み勉強が遅れていた。だが、知的障がいはなかった。

小松島学園の開園にあたり、宮城県教委指導主事の内海正は「中学生の方を二グループ、小学生を一グループに分けて勉強させたい。この恵まれた環境で薄幸の子たちを明るくのびのびと、そして丈夫に育てたい」と抱負を述べた(*3)。内海は学園の職員を束ねる「校長格」(*4)として着任することになっていた。

4月11日に入園式があった(*5)。一箇所に集められたことを淳子は覚えている(*6)。制服はなかった。

小松島学園は全寮制の収容施設だ。子どもたちは勉強だけではなく、寝食を共にした。男子棟と女子棟に分かれ、数人ごとに各部屋を割り当てられた。

女子棟の1階が淳子の居室だった。7畳(約13平方メートル)(*7)の広さ。年齢も出身地も違う3、4人がいた。淳子が一番年上だった。

淳子と同じ境遇の子どもは他にもいた。

小松島学園の子どもたちを教えていた庄司憲夫(94)は現在も宮城県柴田町で健在だ。

「小松島学園の子どもたちの中には、知的障害があるというより、家が貧しくて学校に行けず、学習に遅れている子たちがいた。当時はそんな子どもたちが多かった」(*8)

淳子もそんな一人だった。小松島学園には、障がいがなくても、貧しさゆえに学校での学習が遅れた子どもたちがいた。

淳子は女性指導官から事あるごとにつらく当たられた。「あんたは強情だ」と頭ごなしに怒鳴られたこともある(*9)。親と離れた14歳の淳子には、つらいことだった。「帰りたい」と実家に手紙を書いた。

父親から返事がきた。

「お金かかるから帰ってくるな」

淳子は「うちは貧しかったし。仕方ないけど悲しかったね」と振り返る(*10)。

宮城県と、小松島学園を設立し運営した宮城県精神薄弱児福祉協会が、貧しい家の子どもたちを標的にしていたことは確かだ。

県民政労働部母子課長の菅原敏雄は、1957年の著書『精神薄弱児』の中で、要約すると次のように述べている。この年は福祉協会が結成された年だ。

―― 精神薄弱児施設にすぐ収容しなければならない児童の数は、児童福祉司や児童相談所でつかんでいる数だけでも916人に及んでいる。

―― これらのケースを持つ世帯のうち、19%は生活保護家庭だ。貧困家庭も一緒にすると、実に64%までが、その日の生活に困っている。子どもを収容施設に入れることができれば、生活扶助や貧しいくらしから解放される可能性がある。

―― 子どもたちは、こうした家庭の中においては、養育されるどころか、放置され、悪癖をますます助長され、ますます虐待され、そのひとがらが、悪く悪くとかわっていく。これらの子どもたちの将来がどうなるか。大人になったとき社会がどのような被害をこうむるか予想もつかない。考えただけで、膚に粟の生ずる思いだ。

福祉協会の趣意書でも「優生手術の徹底」を掲げた章で貧しい家庭について触れている。「精神薄弱児がいる家庭の大部分は国民の税金のやっかいになっている」「精薄の家庭は減っておらず、悪貨が良貨を駆逐している」と主張し、こう結論づけている。

「子どもが生まれないような優生手術をする必要があります。それが、その親と子どものしあわせです」

子どもたちにとくに人気がある指導官がいた。三宅光一だ。当時23歳。親元を離れて心細い子どもたちに、「ポパイ」と呼ばれて慕われた。柔道の達人で筋肉隆々。アメリカの人気アニメの主人公、ポパイに似ていた。現在81歳で、仙台市で暮らしている。和室に通された(*11)。自ら緑茶をいれ、おかきを出してくれた。

三宅は民生委員として働く父の背中を見て育ち、同じ福祉の道に進んだ。障がい児施設で働きたくて、九州の宮崎県都城市にまで見学に行ったこともあった。ある日、父にいわれた。

「そんな遠くに行かなくても、新しい施設が仙台にできっから。どうだ」

それが小松島学園だった。

指導官として小松島学園に住み込んだ。着任してから2日間は布団が届いてなくて、わらにくるまって寝た。

子どもたちと年齢が近い三宅はすぐに人気者になった。子どもたちは「ポパイ!」といっては寄ってきた。

いたずら盛りの年頃だ。男の子は元気がありあまって悪さばかりする。そんなときは柔道の稽古をさせ、ヘトヘトにさせる作戦をとった。

「うちに帰りたい」と、子どもが小松島学園を抜け出すこともよくあった。子どもを保護した警察署から電話があると、そのたびに自分の自転車で迎えに行った。始末書を月に20回書くこともあった。

「うちさ帰ったってねぇ、親も困るんですよ。生活保護を受けていたり、子どもが隣に悪さしたりで。家庭で持て余した子たちですから」

三宅は親代わりのつもりで子どもたちに向き合った。

淳子のことははっきり覚えている。淳子の担当の女性指導官が淳子にきつく当たっていたこと、その代わり飯塚先生が淳子のいうことにやさしく耳を傾けていたこと、淳子がその飯塚先生を慕っていたこと――。

飯塚先生は、髪を後ろで一つに結った清楚な女性で、いつも淳子に笑顔で接してくれた。この連載で淳子が使う仮名「飯塚淳子」は、この「飯塚先生」からとっている。淳子には、今でも忘れられない名前なのだ。

三宅は写真が趣味だった。自慢の一眼レフカメラで小松島学園の様子を写した。その写真を今でも大切にしている。

L判ほどの大きさのモノクロ写真。そこから当時の小松島学園の様子が見えてくる。

浴槽で笑顔を見せるイガグリ頭の男の子。机に座って真剣に授業を聴く子どもたち。バラ園の中で笑い合うオカッパ頭の女の子たち――。

三宅は一人の男の子の写真を指して笑う。「こいつはワルだったなあ」。他の子どもに指図していたずらをするような子だった。淳子と仲が良い男の子がいた。「あの子は板金工として独立したんだよなあ」と嬉しそうにいった。

一枚の写真で、三宅の手が止まった。運動会の写真だった。

「ああ、この子だ」

少女が、肩まである髪の毛をなびかせて土のグラウンドを駆けている。白い半袖シャツに短パン、裸足だ。

「『ポパイ、こっちゃ来い!』と慕ってくれていた子なんですよ」

その少女に、あることが起きた。

 

(敬称略)

[おことわり] 文中には「精神薄弱」など差別的な言葉が含まれているが、当時の状況を示すために原文資料で使用されている言葉をそのまま使用しました。もし、あなたの大切な人が知らない間に子どもを産めない身体にさせられたら、どうしますか? 特集「強制不妊」の記事一覧はこちらです。

=つづく

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[脚注]

*1 河北新報1960年4月8日付朝刊。

*2 河北新報1960年4月8日付朝刊。

*3 河北新報1960年4月8日付朝刊。

*4 河北新報1960年4月8日付朝刊。

*5 河北新報1960年4月8日付朝刊。

*6 飯塚淳子への取材、2018年4月4日午後2時から、仙台市内で。

*7 宮城県精神薄弱児福祉協会「児童福祉施設小松島学園について」作成年不明。

*8 庄司憲夫への取材、2017年11月24日午後2時10分から、宮城県柴田町内で。

*9 飯塚淳子への取材、2017年6月22日午後2時から、仙台市内で。

*10 飯塚淳子への取材、2018年2月28日午後5時40分から、仙台市内で。

*11 三宅光一への取材、2017年10月26日午前11時20分から、仙台市内で。

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