逃げても、逃げても【連載レポート】強制不妊(17)

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飯塚淳子は原告として国を訴えた。横断幕を手に仙台地裁に向かう弁護団や支援者たち=2018年5年17日、仙台市青葉区片平1丁目(C)Waseda Chronicle

小松島学園に入所した飯塚淳子は、学園の女生徒たちがつぎつぎに不妊手術をされていることには気が付かなかった。そのまま1年が過ぎて義務教育を終える年齢になり、学園を卒業することになった。

しかし、淳子は実家に帰ることはできなかった。貧しくて余裕がなかったからだ。このため淳子は、仙台市内で不動産業を営む家庭に住み込みの家事手伝いとして働くことになった。

働き口が決まり、1961年春、卒業の日を迎えた。中学部の卒業生6人。淳子以外は板金工や店員、印刷製本所に就職することになっていた。卒業式が終わった後の3月27日、宮城県社会福祉会館に、宮城県精神薄弱児福祉協会の理事たちが集まり、評議員会が開かれた(*1)。小松島学園園長の大坂鷹司は、収容児童たちが「入所してから非常に立派になった」と誇った(*2)。

学園女子棟1階の4人部屋(*3)で、淳子は引っ越しの荷作りをした。といっても、風呂敷包み一個の着替えだけだったが。

そして淳子は、女性職員に連れられて小松島学園を後にした(*4)。その職員は、淳子に何かとつらく当たり、頭ごなしに叱りつけた女性だった。

淳子の新しい生活が始まった。その生活は淳子の記憶をたどるとこうだーー。

住み込み先の一家には、淳子と年齢の変わらない長女、小学生の長男、幼稚園に通う幼稚園生の末っ子がいた。淳子にあてがわれた部屋は、長女と、不動産業の父親の母が一緒の部屋だった。

朝は家族が起きる前に起床。食事の用意を手伝う。日中は家の掃除。給料は満足に支払われなかった。着替えを買うこともできない。いつも同じモンペをはいていた。

奥さんは、機嫌が悪いと淳子にあたった。決まって他の家族がいないところだった。「他人の子だから憎たらしい」「あんたは精薄だ」とののしられたことを淳子は覚えている。そうかと思えば「淳子ちゃんのことは憎く思っていないのよ」ともいった。

淳子は口数が少なくなった。何か言って叱られるのが怖かったからだ。叱られるのではないかといつもビクビクしていた。奥さんの言う通りに動いた。心落ち着ける時間などなかった。「淳子ちゃんは精薄だから」と外出は許されず、「それ以上食べるとバカになる」とご飯のおかわりも禁じられた。

ただ働きどころか、いじめられる。ここにいたくない、自由になりたい。

働き出して1年半が経った1962年冬の夜、淳子は初めて反抗を試みる。奥さんの制止を振り切って外に飛び出した。いじめられる上に、給料も満足に与えられず着替えも買えない。「ここにいたくない、お金がほしい、自由がほしい」。追いかけて家の外に出てきた奥さんに号泣しながら訴えた。一心不乱に走った。できるだけ遠くへ、追いつかれない場所へ。

しかし、淳子は1円も持っていない。遠くに逃げることなどできず、その日のうちに連れ戻された。

その直後、1962年12月24日のクリスマスイブ。仙台市北社会福祉事務所長の庄司重二郎が、淳子に関するある文書を作成した。小松島学園を出たというのに、また「福祉事務所」が淳子を追いかけてくる。

この文書が淳子の運命を変える。

(敬称略)

文中には「精神薄弱」など不適切な表現が含まれているが、当時の実態を明らかにするためそのまま記述している。

=つづく

(C)Waseda Chronicle, All Right Reserved

[脚注]

*1 宮城県精神薄弱児福祉協会「評議委員会会議録」1961年。

*2 宮城県精神薄弱児福祉協会「評議委員会会議録」1961年。

*3 宮城県精神薄弱児福祉協会「児童福祉施設小松島学園について」作成年不明。

*4 飯塚淳子の証言。

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