アメリカの技術を身につけて ── 消えた核科学者(14)

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            • ▶︎ 渡辺周 ワセダクロニクル編集長    友永翔大 写真/ワセダクロニクル
  • 動燃東海事業所が1976年に発行した記念誌『プルトニウム燃料開発十年の記録』 (C)Waseda Chronicle

    私は、失踪した竹村達也の部下だった科学者から竹村がアメリカの国立アルゴンヌ研究所に留学した動燃の「エース」だったと聞いた。

    竹村は20代でアルゴンヌ研究所に留学した。動燃は、アメリカから技術を吸収してきた竹村のような社員たちの活躍で、日本の原子力研究を発展させていった。

    1965年、動燃はプルトニウム燃料開発施設の事業所を茨城県東海村に完成させる。真新しいその施設には、国際原子力機関(IAEA)の東京総会に出席していた世界各国の来賓が視察に訪れた。

    動燃東海事業所が1976年に発行した記念誌「プルトニウム燃料開発十年の記録」には、この時のことが書かれている。

  • 「プルトニウムの発見者として知られる当時の米国原子力委員会委員長のシーボーグ博士が、施設の内部まで歩を運び、当時案内役の中村康治室長の説明に逐一耳を傾ける姿はきわめて印象に残る光景であった」

    シーボーグ博士とは、第二次世界大戦中にアメリカの原爆開発・マンハッタン計画に参加した科学者だ。プルトニウムは彼が1940年に発見し、長崎の原爆に使われた。

    動燃は記念誌で、プルトニウムの利用という国策を遂行したことへの自負ものぞかせている。文中に出てくる石川一郎は初代経団連会長。1956年の原子力委員会発足時に、ノーベル物理学省を受賞した湯川秀樹らと共に原子力委員会委員に就任した人物だ。

  • 「施設の完成式が科学技術庁はじめ地方自治体関係者多数参列の中に盛大に挙行された。特に完成式には原子力委員長代理の故石川一郎が式壇に立たれ、プルトニウム利用開発への限りない努力を訓されたことは核燃料サイクルの論議がややもすれば空転し、抽象論議に走る昨今の世情からみればまさに先見の啓示であった」

    施設が完成した翌年の1966年1月には、アメリカから購入したプルトニウム240グラムが届く。動燃は試運転を開始した。

    この試運転開始について、記念誌は竹村ら留学組数人の名前を挙げ「既に米国プルトニウム取扱訓練を経て来た経験者グループ」と呼んで賛辞を送る。

  • 「これら経験者の操作技術を見聞きしながら、未経験者が逐次、経験を得てゆく方法によって、何らトラブルもなく、かつプルトニウムに対する必要以上の危惧もなく、操業をスタートさせることができた」

    竹村はアメリカに追いつけ追い越せで技術を学び、日本のプルトニウム利用を背負う人材として順風満帆の日々を送っていたはずだ。それがなぜ動燃を退職することになったのか。

     

    (敬称略)

    =つづく

    *北朝鮮による拉致の目的とは何か、日本は核を扱う資格がある国家なのか ──。旧動燃の科学者だった竹村達也さんの失踪事件について、独自取材で迫ります。この連載「消えた核科学者」は「日刊ゲンダイ」とのコラボ企画です。「日刊ゲンダイ」にも掲載されています。

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